タナカコウキについて(1)/2003.10.26記

続くかどうかわかりませんがこっそりカテゴリを作りました。ヒッソリウザウザと自担その人について語ってみようかなと。常にヒッソリ更新です。当たり前ですが全くの私感なのであまり真に受けないで下さい。って、いつだって私感ジャン誰も真に受けてなんかネーヨ。ごめんなさい。ただ語りたい気分になっただけです。

最近、宮台真司の文庫化された著作を読んだ際に思った事。何でもカツンに結びつけてしまうのは最近の私の悪い癖なのだけれど、(ていうか悪すぎ)ご多分に漏れず同じ癖が出てしまったわけです。おおまかにあらすじを言うと、「人生は無意味だ」という考えのもとに、端から見れば順風満帆、申し分なく見えた青年が自殺した。彼はなぜ死を選び死に至ったのか、というような深刻かつ鬱々とした内容の本なのですが、この本に限らず様々な所で発せられている宮台氏の定義「透明な存在」(=無意味さ)への言及の途中の一部分についてを抜粋します。

僕も早くから同じようなことを言っています。世界は殺伐としているし人生は無意味だと。多分多くの人は漠然とそう思っていながら、言葉にしていないだけでしょう。
渡辺君(自殺したS君の友人)は「確かに無意味だ。でもそこそこ楽しい。」と(人生を)とらえたが、S君は「そこそこ楽しい、でも無意味。」だととらえた。この似て非なる意識にこそ、生死を分ける差異があるのではないでしょうか。

人生は無意味である、とはよく言われることだけれど、そもそも生きるということに過剰な意味付けなど必要なものだろうか。では、無意味(とされる)なものに存在価値(存在意味)はないのか?と問われれば答えは断じて否であるわけで、その時点で存在の「意味」というものなど簡単に崩壊してしまう。(というか、無意味なものだって存在していていいのである。存在する意味などなくても。)

田中聖が"ハルカナ約束"で歌うラップ部分の歌詞(英語部分の本人解説より)

僕は君との約束を信じる けれど永遠の約束なんて無い でも僕は約束をする

言い換えればこれは、「永遠の約束なんてない(=約束など無意味だ) でも僕は約束をする」であり、「僕は約束をする でも永遠の約束なんてないんだ」という意では決してないわけで、だからなんだと問われれば、そのとても微妙な彼のメンタルバランスを私はかなり信用しているという事に他ならない。実際のところ彼の言葉や時折披露される詞の数々は、そのパブリックイメージとは異なるネガティヴな要素を多分に含んでいることが多く、そこにどうしても着目してしまうわけだけれども、彼の思考の根底には(彼自身も気がついてはいないかもしれないが)なんというか、諦めというか、『物事はいつか必ず終わるのだ、だから今しかないんだ』という、空虚さと、その逆説的な熱さが流れていると私は常々思っていて、それははっきりとネガティヴな思考傾向ではあるけれども、だからといってどこまでも堕ちていきそうな危うさはそこには存在しない。この子はその勘の良さ故に見なくていいものまで見えてしまっているのかもしれないけれども、それ故に訪れる恐怖や絶望に飲み込まれて我を失うことはないのではないか、という、根拠のない、でも私的にかなり確かな信頼を彼に対して寄せているわけで、彼ならば「人生は無意味だ」ということに気がついても(もう気がついていると思うのだが)「でも、そこそこ楽しい(自分は楽しくやれると思う。)」という位置で、タフにこの世界を、彼の生きる世界を生き抜いてくれるのではないかと思うのだ。

実際のところ、聖に限らずカツンというグループ全体にその匂いを私は感じるわけで、カツンというグループは、一見したイメージからはかけ離れた暗さを持っていると私は思う。そこが私にとってはたまらない魅力でもあるわけだが。『希望』『夢』を与えることがジャニーズのグループに与えられたパブリックイメージであり使命であるとすればカツンに流れる本流は大きくそこを外れている。彼らがこれでもかと繰り出し見せるものはどこまでも『現実』そのもの、常に現在進行形のリアルに他ならない。続く。